このページでは、構内遺跡出土資料について紹介します。
※写真・文章の二次利用を禁止します。なお本ページのリンクを貼ることは問題ありません。
目次(クリックするとジャンプします)
本郷地区(東京都文京区)
駒場地区(東京都目黒区)
小石川地区(東京都文京区)
目白台地区(東京都文京区)
白金台キャンパス(東京都港区)
三鷹国際学生宿舎(東京都三鷹市)
検見川キャンパス(千葉県千葉市)
理学系研究科附属臨海実験所(神奈川県三浦市)
東京大学常呂実習施設(北海道北見市常呂町所在)では、当地を拠点として北東アジア考古学の調査・研究、教育および展示を行っています。下記サイトでは活動内容や収蔵資料等を掲載しています。
常呂実習施設 (新しいタブが開きます)
本郷地区(下の帯をクリックすると、時代・項目が開きます)
本郷台遺跡群、弥生町遺跡群(東京都文京区)
本郷地区は、本郷台遺跡群(文京区No.47)、弥生町遺跡群(No.28)の名称で、旧石器時代から近世までの複合遺跡として登録されています。
また弥生町遺跡群は弥生土器第1号発見推定地としても知られ、その一部は国指定史跡弥生二丁目遺跡となっています。
縄文時代
草創期
草創期土器
本郷構内における縄文時代草創期の遺物は、 文学部3号館地点の調査で石鎗が1点と、浅野地区、工学部風工学実験室地点で2点土器が出土しました。文学部3号館地点の石鎗は原位置を保っていませんが、工学部風工学実験室地点で出土した土器は、斜面部に堆積したソフトローム上面で検出されています。
工学部風工学実験室地点から出土した土器の内1点は、微隆起線文をもつ深鉢の口縁部で、垂下する2条のわずかに盛り上がった貼り付けがみられます。
草創期の遺構・遺物は、近隣では新宿区百人町三丁目西遺跡などで検出されているのみで、本郷構内周辺では見つかっていません。
(執筆:香取祐一)
調査地点:工学部風工学実験室地点(本郷40)
掲載:『浅野地区Ⅰ』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書9、2009年刊行)
参考文献:『法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
新宿区百人町遺跡調査会1997『百人町三丁目西遺跡Ⅲ』
早期
炉穴出土の早期末葉土器
縄文時代早期に属する遺物は本郷構内の調査では散見されますが、近現代または近世の遺構、包含層からの出土が主で、遺構にともなう例としては、理学部1号館前地点、看護職員等宿舎1号棟地点、看護職員等宿舎5号棟地点などです。特に看護職員等宿舎5号棟地点では9基の炉穴と竪穴建物1基が確認されました。これらの遺構が検出された地点は、本郷台地東端に位置する本郷構内の東側が中心です。
出土した土器は早期後半の条痕文系土器が主体です。
(執筆:香取祐一)
調査地点:看護職員等宿舎1号棟地点(本郷19)
掲載:『医学部附属病院 看護職員等宿舎1号棟地点・臨床試験棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点(1)』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書15、2021年刊行)
参考文献:「理学系研究科・理学部1号館前地点発掘調査報告」(『東京大学構内遺跡調査研究年報』5、2006年刊行)
『医学部附属病院看護職員等宿舎5号棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書19、2024年刊行)
前期
前期中葉竪穴建物
縄文時代前期に属する遺構、遺物は少なく、看護職員等宿舎5号棟地点で隅丸方形と推定される竪穴建物1基確認された程度です。覆土中から前期中葉の黒浜式土器が中心とした遺物が多数出土しました。
本郷構内で出土する前期の土器は黒浜式、諸磯式土器が多く、前葉の関山式はみられません。前期の出土地点も早期同様に、本郷構内東側に多い傾向が窺えます。
(執筆:香取祐一)
調査地点:看護職員等宿舎5号棟地点(本郷74)
掲載:『医学部附属病院看護職員等宿舎5号棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書19、2024年刊行)
参考文献:「理学系研究科・理学部1号館前地点発掘調査報告」 (『東京大学構内遺跡調査研究年報』5、2006年刊行)
『医学部附属病院 看護職員等宿舎1号棟地点・臨床試験棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点(1)』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書15、2021年刊行)
後期
後期の土器(1:文学部3 号館地点出土、2:御殿下記念館地点)
本郷構内で縄文時代後期の遺構は確認されていませんが、わずかに文学部3号館地点、御殿下記念館地点、工学部1号館地点で大形の土器が出土しています。いずれも傾斜地に堆積した黒色土層中で出土し、文学部3号館地点では後期後葉加曽利B1式土器、御殿下記念館地点では堀之内2式土器、工学部1号館地点では安行1式土器が出土しています。
(執筆:香取祐一)
調査地点:文学部3号館地点(本郷2)、御殿下記念館地点(本郷3)
掲載:『法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
『山上会館・御殿下記念館地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書4、1990年刊行)
参考文献:『工学部1号館地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書6、2006年刊行)
晩期
土器廃棄場
縄文時代晩期の土器片は本郷構内全域に散見されますが、遺構は医学部附属病院入院棟A地点の埋没谷で発見された土器廃棄場のみで、安行3c式を中心とする2箇所の集中区(合計344点)が確認されました。出土した層位は、文学部3号館地点、御殿下記念館地点の後期土器と同じと思われる黒色土上部です。
この周辺で人々が生活していたことは確実と思いますが、後・晩期の南関東地方では竪穴建物が比較的浅く構築される傾向があるため、他の遺構が検出されていないのは、後世の掘削・削平で消失した可能性も考えられます。
(執筆:香取祐一)
調査地点:医学部附属病院入院棟A地点(本郷23)
掲載:『医学部附属病院入院棟A地点 報告編』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書13、2016年刊行)
弥生時代
写真1(浅野キャンパスの方形周溝墓)
写真2(方形周溝墓出土の土器)
弥生時代の遺構や遺物は、本郷地区のなかでも浅野キャンパスに目立ちます。東京大学文学部考古学研究室が発掘調査を実施した地点では、弥生時代後期の環壕がみつかり、その付近一帯に環壕集落が営まれたことがわかっています。歴史の教科書などでよく知られる「弥生式土器第1号」は、この環濠集落の周りから出土したものかもしれません。
浅野キャンパスの工学部武田先端知ビル地点では、「方形周溝墓」という四辺を溝に囲まれたお墓が確認されました(写真1)。墓をとり囲む溝から、弥生時代後期の壺形土器が複数個体出土しました。また、中央の埋葬施設(土坑)から、大きさが1㎝未満のガラス小玉と石製の管玉が計28点出土しました。写真1は、浅野キャンパスの方形周溝墓から出土した壺形土器です。幅の広い口縁部をもつ大形品は、口縁部や肩のあたりが棒状や円形をした粘土の貼り付けや多段に施された縄文で装飾され、首や胴体は赤彩されています。これらは墓に供献された土器と考えられます。
(執筆:山下優介)
出土遺構:1号方形周溝墓
調査地点:工学部武田先端知ビル(本郷61)
掲載:『浅野地区Ⅰ』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9、2009年刊行)
参考文献:東京大学文学部考古学研究室編 1979 『向ヶ岡貝塚-東京大学構内弥生二丁目遺跡の発掘調査報告-』東京大学文学部
堀内秀樹・西秋良宏編 2011 『弥生誌 向岡記碑をめぐって』東京大学総合研究博物館
古墳時代
古墳時代中期の本郷台―カマドをもたないムラ―
看護職員等宿舎5号棟地点では、古墳時代中期(5世紀頃)の竪穴建物が複数棟検出されましたが、そのうち床面積が大きなSI201からは、煮沸や調理に用いる甕形土器を中心に、豊富な土器類が出土しました。なかでも興味深い遺物が、写真の左手前に並ぶ3点の土製支脚です。その形状から「烏帽子形」の土製支脚などと呼ばれることもあります。各支脚には、持ち上げるためと思われるくぼみが両側につくられています。煮炊きの際には3個を写真のように並べてその中央で火を焚き、支脚上に土器をのせて使用したのでしょう。実際に本地点のSI201では、建物の床面につくられた炉上で、使用時の配置を保ったような状況で3つの支脚が出土しました。
古墳時代中期になると、それ以前の地床炉とは異なる煮炊きの施設である、カマドをもつ竪穴建物が各地でつくられ始めますが、本地点にカマドは認められません。新しい生活様式の受容のあり方は、同じ時期でも集落ごとに異なっていたようです。
(執筆:山下優介)
出土遺構:SI201
調査地点:看護職員等宿舎5号棟地点(本郷74)
掲載:『医学部附属病院看護職員等宿舎5号棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点(2)』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書19、2024年刊行)
古墳時代前期の集落と東海系土器
古墳時代には、現在の医学部附属病院エリアを中心に集落が営まれていました。看護職員等宿舎1号棟地点では、古墳時代前期(4世紀頃)の竪穴建物が複数棟みつかり、そのうちの一つであるSI1001(写真)は、柱と炉の痕跡が明瞭に残るなど非常に良好な状況で確認されました。SI1001からは貯蔵用の壺や煮沸・調理用の甕のほか、食事を盛る高坏など様々な器種の土器が出土しました。
出土土器で注目されるのは、「ヒサゴ壺」や「元屋敷系高坏」などのいわゆる「東海系土器」と呼ばれる土器です。本地点に隣接する臨床試験棟地点でも、東海系土器の一器種である「S字甕」が出土しています。これらは伊勢湾沿岸地域に系譜を持つ土器で、弥生時代の終わり頃から古墳時代の初め頃にかけて関東地方の各地で出土することが大変注目されてきました。本地点の東海系土器も、人の活発な往来を窺わせるような、当時の交流関係を示しています。
(執筆:山下優介)
調査地点:看護職員等宿舎1号棟地点(本郷19)
掲載:『医学部附属病院看護職員等宿舎1号棟地点・臨床試験棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点(1)』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書15、2021年刊行)
平安時代
井戸跡
これまで本郷キャンパス内で発見された古代の遺構は、竪穴住居跡が数件、井戸跡が1基とわずかで、古墳時代以前と比べて土地利用が低くなったといえます。写真の井戸跡は医学部附属病院内を蛇行して根津谷へ開く埋積谷内から発見されました。井戸は南北6.3m、東西5.4mを測る楕円形の皿状の落ち込み内に、一辺約2m、深さ約2mの正方形の掘り込みがあり、さらに掘り込みの底には水溜と考えられる一辺約80cmの正方形の落ち込みがありました。この落ち込みの角には杭痕が認められ板枠があったと考えられます。また井戸底は関東ローム層を掘り抜き、本郷砂層を約50cm掘り下げた深さにあり、本郷砂層内の地下水脈を水源にしていたことが判ります。
(執筆:成瀬晃司)
調査地点:医学部附属病院中央診療棟地点(本郷4-1)
掲載:『医学部附属病院地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書4、1990年刊行)
中世
写真1(井戸)
写真2(境界施設)
本郷キャンパス内の中世の痕跡は、医学部附属病院入院棟A地点や同看護職員等宿舎5号棟地点から遺構がいくつか認められているにすぎず、この時代の活動は低調と言えます。
写真1は、入院棟A地点で確認された素掘りの井戸です。中世の井戸は、近世のものとは大きく違って、形がいびつで上部が広がっています。同地点では井戸の他に、硬化した道状遺構も確認されています。
写真2中央は、看護職員等宿舎5号棟地点で確認された室町時代前期の幅約5mの大きな境溝と考えられる遺構です。遺構からは、古瀬戸後期様式の皿などが出土しています。
この他、中世に作られた中国龍泉窯(りゅうせんよう)の青磁や建窯(けんよう)の天目茶碗などが出土しています。これらは「唐物」(からもの)と呼ばれ、上級武士の部屋飾りや茶の湯の道具でしたが、近世においても高い価値を維持し、前田家も「御道具」(おどうぐ)として所持、使用していました。
(執筆:堀内秀樹)
調査地点:医学部附属病院入院棟A地点(本郷23)、医学部附属病院看護職員等宿舎5号棟地点(本郷74)
掲載:『医学部附属病院入院棟A地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書13、2016年刊行)
『医学部附属病院看護職員等宿舎5 号棟地点・看護職員等宿舎3 号棟地点(2)』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書19、2024年刊行)
近世
大名屋敷地 加賀藩邸 御殿空間
写真1(御殿の基礎)
写真2(能舞台)
写真3(御膳所の貯蔵施設)
写真4(金箔瓦)
写真5(揃いの上質磁器製品)
江戸時代、各大名は江戸に藩邸を幕府から拝領し、江戸での活動拠点としていました。その中心は、上屋敷と呼ばれていた藩主が居住する屋敷でした。加賀藩は、天和3年(1683)以降、本郷邸を上屋敷としましたが、実質的には1657年の明暦の大火によって大手町にあった屋敷が全焼した際に4代藩主前田綱紀が本郷邸に避難・居住した時に始まります。
本郷邸内は、藩主とその家族が住む御殿空間と江戸詰めの家臣が住む詰人空間とで構成され、両者は明確に区分されていました。御殿空間は、政治を行う表、藩主・夫人が住む中奥や奥、それと庭とで構成されていました。
医学部教育研究棟地点では、広大な御殿空間が平坦に地ならしされ、御殿建物の大規模かつ堅牢に造られている基礎が確認されました(写真1)。また、御殿内には大名の活動として欠かせない能舞台(写真2、医学部教育研究棟地点)、御膳所(台所)の地下蔵(写真3、経済学研究科棟地点)、現在三四郎池として憩いの場になっている名園「育徳園」(山上会館地点)などが確認されています。
出土遺物は、寛永6年(1629)の将軍徳川家光御成に伴う御殿に葺かれていた金箔瓦(写真4、医学部教育研究棟地点)、武家儀礼の道具(写真5、御殿下記念館地点)など加賀藩の格式や経済力を示す遺物が多く出土しています。
(執筆:堀内秀樹)
調査地点:山上会館地点(本郷1)、御殿下記念館地点(本郷3)、薬学部南館地点(本郷15)、医学部教育研究棟地点(本郷24)、薬学部資料館地点(本郷28)、経済学研究科棟地点(本郷54)、薬学系総合研究棟地点(本郷66)、情報学環・福武ホール地点(本郷78)、アカデミック・コモンズ地点(本郷148)など
掲載:『山上会館・御殿下記念館地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書4、1990年刊行)
『医学部教育研究棟地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書14、2016年刊行)
『経済学研究科棟地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書18、2023年刊行)
大名屋敷地 加賀藩邸
国産品の「茶道具」
元禄16年(1703)の大火で被災して廃棄された陶器・土器です。次のような特殊な装飾・形の器が出土しました。
碗は、古今集の和歌が記されたり(①)、象嵌で竹を表現する(②)など凝った装飾が施されます。信楽の陶器壺(③)は、上部に褐色の釉薬、下部に透明の釉薬が掛かり、宇治茶を将軍に献上した「腰白茶壺(御用茶壺)」に似ています。備前産の舟形陶器(④)は、伝世品の「釣舟花入」に形が類似しています。
このような器の組合せは、江戸遺跡でよく出土する碗・皿・徳利等の組合せと異なります。伝世品との比較から「茶道具」の可能性が考えられます。
(執筆:湯沢丈)
調査地点:法学部4号館地点(本郷2-1)
出土遺構:E8-2号土抗
掲載:『法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
関連書籍:『加賀殿再訪』
大名屋敷地 加賀藩邸 詰人空間
八筋長屋跡
加賀藩において家臣の多くは参勤交代により江戸に滞在する一年ほどのあいだ、藩から貸し与えられた「御貸小屋」と呼ばれる長屋に単身で住むことになります。こうした家臣団が居住する区画は「詰人空間」と呼ばれ、本郷邸では中央にある「御殿空間」を囲うように整然と配置されています。
家臣団は人持組頭(八家)を筆頭に人持・平士・与力などに区分されており、住環境はこうした階層によって大きく異なっていました。風呂や厩などは上・中級藩士が暮らす長屋に限られましたが、庭だけは小さいながらも下級藩士の長屋にもありました。
発掘調査では庭部分からごみ穴や便槽跡などのほか、地下室が多く検出されています。ほとんどが素掘りで一辺1.5~2.0m程度の広さです。造り付けの階段を持たないため、梯子などで昇降していたのでしょう。地下室は帯状の範囲に密集する傾向がみられることから、庭内で構築される位置がある程度限られていたと考えられます。
(執筆:小川祐司)
調査地点:理学部7号館地点(本郷5)
掲載:『東京大学構内の遺跡 理学部7号館地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書1、1989年刊行)
参考文献:『法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
大成可乃 2020 「地下室を思考する―医学部教育研究棟地点と他地点との比較から―」『東京大学本郷構内の遺跡 医学部教育研究棟地点 研究編』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書14)
吉田伸之 1988 「近世の城下町―江戸から金沢へ―」『週刊朝日百科 日本の歴史別冊 歴史の読み方』2
大名屋敷地 大聖寺藩邸
庭園跡
写真は大聖寺藩邸内に造られた池跡です。確認面上下の層序や出土遺物から1680年代後半に構築され、元禄16(1703)年の火災で廃絶されたことが確認されました。池跡は2基発見され、いずれも全面に厚さ5~10cmの漆喰が貼られていました。写真手前の瓢箪形をした池が古く、それを埋め戻した後、奥の池が作り直されています。奥の池は四つ葉のクローバー形をしており、中央に中之島が造られています。左手前の溝状部分の先端には取水口があり、上水を引き込んでいたことが確認されました。大聖寺藩邸内の生活水は基本井戸によりますが、池の水源には中山道(現、本郷通り)に沿って引かれた千川上水を利用していたと考えられます。池の周囲には多数の植栽痕や土塁が発見され、池を中心とした庭園が拡がっていたと考えられます。
(執筆:成瀬晃司)
調査地点:医学部附属病院入院棟A地点(本郷23)
掲載:『医学部附属病院入院棟A地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書13、2016年刊行)
大名屋敷地 水戸藩邸
藩邸内を区画する道路状遺構(SR1)
言問通りの北側、弥生・浅野地区は、江戸時代、水戸藩江戸屋敷の1つである駒込邸でした。水戸藩駒込邸は、元和8(1622)年に下屋敷として拝領し、元禄6(1693)年に中屋敷になりました。拝領面積は、幕末頃には約64000坪でした。
農学部生命科学総合研究棟地点で確認されたSR1は、調査区を北西から南東方向へ延び、確認面での幅10.9m、遺構底面の幅5.5m、確認面からの深さ4.54mを測る大きな道路状遺構です。いわゆる関東ローム層を掘り抜き、断面形状が逆台形を呈すように造られ、遺構の底面には轍(わだち)状の痕跡も確認されました。
文政9(1826)年『向陵弥生町旧水戸邸絵図面』との照合から、SR1は藩邸を東西に区画する道と推定していますが、明治16(1883)年測量の「参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図」には描かれていない事から、それまでには埋められていたと考えられます。本遺構からは、19世紀代に位置づけられる遺物が少量出土していて、想定される廃絶年代を裏付けるものです。
(執筆:大成可乃)
調査地点:農学部生命科学総合研究棟(本郷62)
掲載:「農学部生命科学総合研究棟(NSK01)地点」『東京大学校内遺跡調査研究年報7』(2011年刊行)
参考文献:『東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区Ⅰ東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区Ⅰ』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書9、2009年刊行)
『東京大学本郷構内の遺跡 教育学部総合研究棟地点(SK)・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点(IML)』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書10、2011年刊行)
『弥生誌』東京大学総合研究博物館(2011年刊行)
旗本御家人屋敷地
地下室に刻まれた職人の記録(SU327)
正門北側から弥生町交番付近までの本郷通り沿いには、幕府の御先手鉄砲組屋敷が置かれていました。その一角にあたる工学部14号館地点の調査では4区画の屋敷が確認され、地下室、土坑、井戸など多くの遺構、遺物が発見されました。写真の階段付地下室は、一辺320cm、天井高200cmの室部規模を呈す大形の地下室です。室内の壁には「丑ノ九月廿四日初/同九月廿八日出来申候/内許」「市郎兵衛/次郎兵衛/■久蔵/清兵衛」と刻まれていました。その内容から最低5人の職人によって地下室の内装に5日間を擁したことが判り、江戸時代の地下室建設工期を知る貴重な資料と評価されます。
(執筆:成瀬晃司)
調査地点:工学部14号館地点(本郷14)
掲載:『工学部14号館地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書7、2006年刊行)
町地
本郷六丁目町屋跡から見つかった地下式麹室
「赤門」のイメージが強く、本郷キャンパスは江戸時代の加賀藩邸と思われている方が多いと思いますが、実は文政9(1826)年までは町屋だった場所があります。それが本郷通り(旧・中山道)沿いにある現在の情報学環・福武ホール、伊藤国際学術研究センター、経済学研究科学術交流棟などが建っている辺りです。
「なぜ文政9年まで?」といえば、加賀藩では徳川将軍家から溶姫を迎えるため、文政9年、藩邸西側にあった本郷五丁目・六丁目の町屋を引き払い、藩邸を西側へ拡げて御殿を建てました。その表御門が「赤門」です。そのため調査地点周辺は、文政9年までは町屋、それ以後は加賀藩邸になりました。3地点を発掘したところ、町屋時期の生活面と加賀藩邸時期の生活面が見つかりました。
町屋の生活面で見つかる最も特徴的な遺構が写真の「地下式麹室」(伊藤国際学術研究センター地点(本郷93)SU906)です。地下式麹室は全ての調査地点で確認され、本郷六丁目町屋の居住者の生業を示す遺構です。遺構中央には方形の竪穴(たてあな)があり、その周囲に羽子板形をした部屋が複数連結しています。本来、地上で確認できるのは中央の竪穴のみです。竪穴は、地下3m近くまで関東ローム層を掘り下げ、さらに人1人が入れる程度の入口から羽子板形に部屋を掘り拡げました。室内の天井、壁は、丁寧に整形され、大人が中腰で活動できる程度の高さでした。天井や壁が当時の状態で発見されたものもあり、安政江戸地震や大正関東地震の揺れを耐え抜くほどの強度を持っていたことが窺えます。
(執筆:大成可乃)
調査地点:伊藤国際学術研究センター地点(本郷93)、情報学環・福武ホール地点(本郷78)、経済学研究科学術交流棟(本郷81)
掲載:「情報学環・福武ホール地点」『東京大学構内遺跡調査研究年報6』(東京大学埋蔵文化財調査室2008年刊行)
「経済学研究科学術交流棟」『東京大学構内遺跡調査研究年報7』(東京大学埋蔵文化財調査室2011年刊行)
「伊藤国際学術研究センター地点」『東京大学構内遺跡調査研究年報8』(東京大学埋蔵文化財調査室2012年刊行)
参考資料:『赤門-溶姫御殿から東京大学へ』(堀内秀樹・西秋良宏編、東京大学総合研究博物館2017刊行)
寺社地
講安寺墓地
医学部附属病院南東部は、大正元(1912)年に取得した浄土宗講安寺境内に該当し、入院棟A地点などで墓域の一部が発見されました。墓は東西方向に並ぶ墓群を構成し、常滑焼大甕の甕棺、方形木棺、円形木棺(早桶)、乳幼児用の火消壺棺、火葬蔵骨器などの埋葬施設が出土しました。
講安寺墓地の北西部は元禄3(1690)年から弘化3(1846)年頃まで富山藩に貸地されていた記録から、発見された墓地は1850年代から1900年代までに埋葬された施設と考えられます。理学部人類学教室との出土人骨共同研究から、被葬者は江戸市中寺院データと比べて成人男性比の高さが指摘でき、講安寺史料にみられる加賀藩士や榊原家家臣などの埋葬がそれを押し上げていると考えられます。
(執筆:成瀬晃司)
調査地点:医学部附属病院入院棟A地点(本郷23)
掲載:『医学部附属病院入院棟A地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書13、2016年刊行)
近代
写真1(前田侯爵邸アプローチ)
写真2(前田侯爵邸西洋館基礎)
明治4年(1871)、明治新政府の版籍奉還により、江戸にあった各大名屋敷は収公されます。加賀藩本郷邸10万余坪も6月に東京府用地となりますが、藩邸南西隅約1万5千坪が、前田家の私邸として使用することとなりました。その後、この地は関東大震災後のキャンパス拡大を望む大学の依頼により、本郷前田邸と駒場農学部との土地交換を行い、大正15年(1926)大学用地となりました。この間、第16代当主前田利為は、明治天皇の本郷邸への行幸を望み、新たに日本館、西洋館、庭園を整備しますが、明治43年(1910)7月に宿願であった天皇の行幸が実現します。
発掘調査では、侯爵邸正門跡、塀跡、西洋館基礎などの遺構と侯爵邸の遺物が出土しています。写真1は、経済学研究科学術交流棟地点から確認された侯爵邸表門のアプローチ基礎石で、馬車などの車両通行に備え、石が密に敷き詰められていました。写真2は、総合研究博物館新館地点で出土した明治天皇行幸のために建築した、後に懐徳館と命名された西洋館の一部です。コンクリートのベースにレンガを何段も積み上げて造られ、部屋の壁の内側には上下水管、空調管などが完備される堅牢、贅沢な造りとなっていました。
(執筆:堀内秀樹)
調査地点:総合研究博物館新館地点(本郷20)、医学部教育研究棟地点(本郷24)、経済学研究科棟地点(本郷54)、インキュベーション施設地点(本郷68)、経済学研究科学術交流棟地点(本郷81)
掲載:『総合研究博物館新館地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書11、2012年刊行)
「経済学研究科学術交流棟地点」(東京大学構内遺跡調査研究年報7、2011年刊行)
東京大学駒場構内遺跡(東京都目黒区)
駒場Ⅰ地区は東京大学駒場構内遺跡(目黒区№1)の名称で、旧石器時代・縄文時代・平安時代・近世の遺跡として登録され、駒場Ⅲ地区は駒場遺跡(目黒区№2)の名称で、縄文時代の遺跡として登録されています。
縄文時代
縄文早期
屋外炉
駒場Ⅰ地区(教養学部キャンパス)は、目黒川支流の空川に開析された小支谷によって、南側は、起伏の多い地形となっています。縄文時代の痕跡は、情報教育棟地点、数理学研究棟地点、駒場コミニュケーションプラザ地点などキャンパス南側を中心に、縄文時代早期から後期の遺構、遺物が出土しています。
写真1は、数理学研究棟地点で確認された縄文時代早期(今から7,000年くらい前)の屋外炉(ファイアーピット)です。継続的に使っていたと思われ、火を使った場所が複数あることが確認できます。
(執筆:堀内秀樹)
調査地点:情報教育棟地点(駒Ⅰ2)、駒場図書館地点(駒Ⅰ12)、数理学研究棟地点(駒Ⅰ9)、駒場コミニュケーションプラザ地点(駒Ⅰ15)、国際学術交流棟地点(駒Ⅰ16)
掲載:「東京大学駒場構内遺跡 大学院数理学研究科Ⅱ期棟地点 発掘調査報告書」(東京大学構内遺跡調査研究年報2、1998年刊行)
古代
平安時代
蔵骨器
数理学研究棟地点から、火葬蔵骨器が出土しました。蔵骨器は土坑中央に正位(口を上に向けて)で埋められており、甕の中には火葬骨と共に炭が多く入っていました。甕は、その形から南武蔵型甕と呼ばれる生活遺跡からも出土する薄作りの南武蔵地域で作られた土師器で、9世紀後半のものと考えられています。こうした蔵骨器は、川崎市、大田区などで多く発見されています。
火葬は、6世紀に仏教が大陸から伝来するとともに広まった風習で、日本では僧道昭や持統天皇が最初期の火葬例(8世紀初頭)として伝わっています。
(執筆:堀内秀樹)
調査地点:数理学研究棟地点(駒Ⅰ9)
掲載:「東京大学駒場構内遺跡 大学院数理学研究科Ⅱ期棟地点 発掘調査報告書」(東京大学構内遺跡調査研究年報2、1998年刊行)
近代
三田用水を引き込んだ木樋跡(SD85)
本地点では、農科大学から農学部時代の畝跡や三田用水から取水溝などが発見されています。取水溝には木樋が使われ、江戸時代の土木技術が用いられていることが判りました。三田用水は寛文4(1664)年に上水として開削され、享保7(1722)年に一旦廃止された後、享保10年から農業用水として再開され、明治に入ると目黒地域では日本麦酒、目黒火薬製造所などの動力として工業利用されていました。
本キャンパスは農学部の本郷移転に伴い昭和10(1935)年に旧制第一高等学校になり、同24(1949)年に新制大学へ移行に伴い教養学部となりました。概期の本地点は駒場寮敷地にあり、それに伴うゴミ穴の調査から当時の学生生活の一端を垣間見る遺物が発見されています。
(執筆:成瀬晃司)
調査地点:駒場コミュニケーションプラザ地点(駒Ⅰ15)
掲載:「駒場コミュニケーションプラザ地点」(東京大学構内遺跡調査研究年報12、2019年刊行)
※写真・文章の二次利用を禁止します。
国指定名勝及び史跡小石川植物園、小石川植物園内貝塚・原町遺跡、小石川御薬園跡(東京都文京区)
小石川地区は、小石川植物園内貝塚・原町遺跡(文京区No.21)、小石川御薬園跡(文京区No.81)の名称で、旧石器時代・縄文時代・近世の遺跡として登録されています。
また植物園は、江戸幕府の御薬園を前身とし、明治8年には小石川植物園に改称し、我が国最初の植物園となり、平成24年に国指定名勝及び史跡小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)として指定されました。
縄文時代
大洞系土器
白山構内に位置する理学系研究科附属植物園本園下水・電源ケーブル埋設枡・埋設溝地点では、縄文時代晩期の竪穴建物1基および遺物包含層が確認されました。
縄文時代晩期の竪穴建物の検出例は、南関東地方では少なく希少といえます。これは小石川植物園が明治期始めより植物園として存続し、乱雑な開発の影響が少なかった故かも知れません。
竪穴建物および遺物包含層は南西側に降る急崖上で発見され、特に遺物包含層はわずか3.2㎡の区画から1000点以上の土器が出土しました。
出土した土器は、縄文時代晩期後葉の安行3d式が中心ですが、東北地方を中心に出土する亀ヶ岡式土器(大洞系)の影響を受けた在地系土器片も含まれていました。
(執筆:香取祐一)
調査地点:理学系研究科附属植物園本園下水・電源ケーブル埋設枡・埋設溝地点(白山6)
掲載:「東京大学白山構内の遺跡 理学系研究科附属植物園本園下水・電源ケーブル埋設枡・埋設溝地点発掘調査報告」(『東京大学構内遺跡調査研究年報11』11、2019年刊行)
近世
饗宴後の廃棄遺構(館林藩下屋敷)
堀跡(小石川御殿)
17世紀後半の小石川植物園は館林藩下屋敷内に位置します。館林藩は後の5代将軍綱吉が藩主を務めた譜代藩で、寛文~延宝年間頃には生母桂昌院が居住していました。そのため綱吉が頻繁に下屋敷を訪れていたことが文献記録から読み取れます。研究温室地点で発見されたカワラケ(土師皿)と食物残滓の多量廃棄遺構は、綱吉訪問など桂昌院が関係する饗宴で使用された資料と考えられます。
また下屋敷の一角は綱吉の将軍奉職に伴い幕府の小石川御殿となり、元禄11(1698)年の御殿拡張により御殿周囲には幅約10間の堀が巡らされました。総合研究博物館小石川分館改修に伴う調査ではその一部が発見されています。
(執筆:成瀬晃司)
〇館林藩下屋敷 SK45
調査地点:研究地点(白山2)
掲載:「理学系研究科附属植物園研究温室地点発掘調査報告」(東京大学構内遺跡調査研究年報5、2006年刊行)
〇小石川御殿 堀 SD1
調査地点:総合研究博物館小石川分館地点(白山3)
掲載:「総合研究博物館小石川分館地点発掘調査報告」(東京大学構内遺跡調査研究年報6、2008年刊行)
目白台三丁目遺跡(東京都文京区)
目白台地区は、目白台三丁目遺跡(文京区№137)として登録され、旧石器時代・弥生時代・平安時代・江戸時代・近代の遺跡が確認されています。
古代
大型柱穴をともなう古代の大形建物跡(SP1844、SP1854、SP2135、SP2136、SP2137)
写真は、2015年度に東京大学附属病院分院跡地(他23)の調査で見つかった東西530cm以上、南北400cmを測る古代の大形建物跡(白線)です。この建物跡の特筆すべきところは柱穴の大きさです。写真中央から左半分は、近代以降に大きく壊され柱穴が小さくなっていますが、残りのよい右側の柱穴は、長軸約70cm、短軸約60cm、深さ約90cmを測り、人の胸あたりまで入るような、深くて大きな柱穴です。その一部には柱の痕跡が認められ、柱穴に建てられた柱の直径が約30cmであることもわかりました。柱穴からは土師器や須恵器の破片が出土しており、古代の大形建物跡(倉庫?)と推定しています。
この大形建物跡の周辺には、同時期と推測される同規模の竪穴建物跡、柱穴列、土師器や須恵器がまとまって廃棄されたごみ穴?なども見つかっています。本地点の調査以前は周辺に古代の竪穴建物跡などが見つかった例がなく、この調査成果は付近にも古代の集落があった可能性を示すものとなりました。
(執筆:大成可乃)
調査地点:目白台国際宿舎地点(他23)
掲載:「他23 目白台国際宿舎(メジロ15)」『東京大学構内遺跡調査研究年報』11
近世
小さな穴に埋められた焼塩壺
調査地点は、絵図面などから元禄期頃に武家地(旗本屋敷地)として利用されはじめ、その後は「百人組同心の大縄地」、「松平出羽守下屋敷」、「御徒」と、所有者が次々と替わった事が知られていました。
発掘調査を行ったところ、17世紀代と推定される遺構や遺物はほぼ見つからず、見つかった遺構や遺物の中心は、18世紀後半から19世紀のものでした。このような調査成果から、江戸時代の調査地点の利用率は低く、しかも限られた期間であった事が明らかになりました。また遺構の多くは、調査地点南側、現在の三丁目坂に続く道路側に集中し、北側ではほとんど確認されなかったことから、利便性の良い道路側を主に利用していた事も判りました。
このような利用状況であったためか、江戸時代の建物遺構は見つからなかったのですが、写真のように「焼塩壺」と呼ばれる土器が埋められた穴が見つかりました(写真左)。穴は直径15cmほど、深さ10cm弱の小さな穴で、焼塩壺は、その穴の中央に、縦半分に割れた状態ですっぽり埋められていたのですが、ひっくり返してみると、壺の外側に墨で鳥?のような絵が描かれていました(写真右)。誰が、なんのために埋めたのでしょうか?
(執筆:大成可乃)
出土遺構:SP116
調査地点:目白台国際宿舎地点(他23)
掲載:「目白台国際宿舎(メジロ15)」(東京大学構内遺跡調査研究年報11、2019年刊行)
近代
レンガ基礎(1号病室基礎)
写真は、2022年度に東京大学附属病院分院跡地(他27)の調査で見つかったレンガ基礎です。レンガ基礎は不規則なマス目状に確認され、建物の間取りが推測できる状態でした。東京大学施設部に残る大正8年「東京帝国大学附属醫院分院平面図」と照合したところ、「1号病室」の基礎である事が判りました。ただし、よくよく検討すると大正8年の平面図とは部分的に間取りが異なり、そのような部分の調査を進めると、増改築した痕跡が見つかりました。大正8年以降の分院平面図または配置図をみていくと、建物名称が何回か変更されながら、建物そのものは昭和17年の配置図まで同じ位置に確認できます。ただ各配置図を見比べると建物の輪郭が変わる部分が確認される事から、増改築を加えながら昭和17までこの建物があった事が推測されます。
もともと分院跡地には明治41(1908)年に内務省医術開業試験所(通称・永楽病院)があり、永楽病院はその後、大正6(1917)年に東京帝国大学に移管され、大正8(1919)年に東京帝国大学医学部附属医院分院となります。移管された当初は、建物、物品は一部を除き東京帝国大学に無償交付されたので、分院創立当時の建物は永楽病院末期の建物を利用していたようです。今回見つかった「1号病室」も永楽病院から移管された建物リストに入っていて、「木造平屋建」と書かれています。ただ基礎構造についての記述はなく、明治末頃の木造建物の基礎構造を知る上で貴重な資料です。
(執筆:大成可乃)
調査地点:(仮称)文京区目白台3丁目計画地点(他27)
掲載予定:『東京大学構内遺跡調査研究年報』18
参考文献:東京大学医学部附属病院分院閉院記念事業実行委員会2001『東京大学医学附属病院分院の歩み』
港区No.135遺跡(東京都港区) ※準備中
白金台キャンパスは、港区№135遺跡の名称で、近世の遺跡として登録されています。近世には大村藩の屋敷が存在しました。
長嶋遺跡(東京都三鷹市) ※準備中
三鷹国際学生宿舎敷地は、長嶋遺跡(三鷹市№24)の名称で登録され、旧石器時代・縄文時代等の遺跡が確認されています。
玄蕃所遺跡(千葉県千葉市) ※準備中
検見川キャンパスの一部は、玄蕃所遺跡の名称で登録され、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、平安時代の遺跡が確認されています。
新井城跡(神奈川県三浦市) ※準備中
理学系研究科附属臨海実験所の敷地および周辺は、中世新井城跡として登録されています。