東大の遺跡

※準備中です

 このページでは、構内遺跡出土資料について、室員が紹介します。
※写真・文章の二次利用を禁止します。なお本ページのリンクを貼ることは問題ありません。

目次(クリックするとジャンプします)
本郷地区(東京都文京区)
駒場地区(東京都目黒区)
小石川地区(東京都文京区)
目白台地区(東京都文京区)
白金台キャンパス(東京都港区)
三鷹国際学生宿舎(東京都三鷹市)
検見川キャンパス(千葉県千葉市)
理学系研究科附属臨海実験所(神奈川県三浦市)


 東京大学常呂実習施設(北海道北見市常呂町所在)では、当地を拠点として北東アジア考古学の調査・研究、教育および展示を行っています。下記サイトでは活動内容や収蔵資料等を掲載しています。
 常呂実習施設 (新しいタブが開きます)

本郷地区(下の帯をクリックすると、時代・項目が開きます)

本郷台遺跡群、弥生町遺跡群(東京都文京区)

 本郷地区は、本郷台遺跡群(文京区No.47)、弥生町遺跡群(No.28)の名称で、旧石器時代から近世までの複合遺跡として登録されています。
 また弥生町遺跡群は弥生土器第1号発見推定地としても知られ、その一部は国指定史跡弥生二丁目遺跡となっています。

旧石器時代 ※準備中

縄文時代

草創期

草創期土器

 本郷構内における縄文時代草創期の遺物は、 文学部3号館地点の調査で石鎗が1点と、浅野地区、工学部風工学実験室地点で2点土器が出土しました。文学部3号館地点の石鎗は原位置を保っていませんが、工学部風工学実験室地点で出土した土器は、斜面部に堆積したソフトローム上面で検出されています。
 工学部風工学実験室地点から出土した土器の内1点は、微隆起線文をもつ深鉢の口縁部で、垂下する2条のわずかに盛り上がった貼り付けがみられます。
 草創期の遺構・遺物は、近隣では新宿区百人町三丁目西遺跡などで検出されているのみで、本郷構内周辺では見つかっていません。
(執筆:香取祐一)
調査地点:工学部風工学実験室地点(本郷40)
掲載:『東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区Ⅰ』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書9、2009年刊行)
参考文献:『東京大学本郷構内の遺跡 法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
 新宿区百人町遺跡調査会1997『百人町三丁目西遺跡Ⅲ』

早期

炉穴出土の早期末葉土器

 縄文時代早期に属する遺物は本郷構内の調査では散見されますが、近現代または近世の遺構、包含層からの出土が主で、遺構にともなう例としては、理学部1号館前地点、看護職員等宿舎1号棟地点、看護職員等宿舎5号棟地点などです。特に看護職員等宿舎5号棟地点では9基の炉穴と竪穴建物1基が確認されました。これらの遺構が検出された地点は、本郷台地東端に位置する本郷構内の東側が中心です。
 出土した土器は早期後半の条痕文系土器が主体です。
(執筆:香取祐一)
調査地点:看護職員等宿舎1号棟地点(本郷19)
掲載:『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院 看護職員等宿舎1号棟地点・臨床試験棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点(1)』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書15、2021年刊行)
参考文献:「理学系研究科・理学部1号館前地点発掘調査報告」(『東京大学構内遺跡調査研究年報』5、2006年刊行)
 『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院看護職員等宿舎5号棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書19、2024年刊行)

前期

前期中葉竪穴建物

 縄文時代前期に属する遺構、遺物は少なく、看護職員等宿舎5号棟地点で隅丸方形と推定される竪穴建物1基確認された程度です。覆土中から前期中葉の黒浜式土器が中心とした遺物が多数出土しました。
 本郷構内で出土する前期の土器は黒浜式、諸磯式土器が多く、前葉の関山式はみられません。前期の出土地点も早期同様に、本郷構内東側に多い傾向が窺えます。
(執筆:香取祐一)

調査地点:看護職員等宿舎5号棟地点(本郷74)
掲載:『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院看護職員等宿舎5号棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書19、2024年刊行)
参考文献:「理学系研究科・理学部1号館前地点発掘調査報告」 (『東京大学構内遺跡調査研究年報』5、2006年刊行)
 『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院 看護職員等宿舎1号棟地点・臨床試験棟地点・看護職員等宿舎3号棟地点(1)』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書15、2021年刊行)

後期

後期の土器(1:文学部3 号館地点出土、2:御殿下記念館地点)

 本郷構内で縄文時代後期の遺構は確認されていませんが、わずかに文学部3号館地点、御殿下記念館地点、工学部1号館地点で大形の土器が出土しています。いずれも傾斜地に堆積した黒色土層中で出土し、文学部3号館地点では後期後葉加曽利B1式土器、御殿下記念館地点では堀之内2式土器、工学部1号館地点では安行1式土器が出土しています。
(執筆:香取祐一)

調査地点:文学部3号館地点(本郷2)、御殿下記念館地点(本郷3)
掲載:『東京大学本郷構内の遺跡 法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
 『東京大学本郷構内の遺跡 山上会館・御殿下記念館地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書4、1990年刊行)
参考文献:『東京大学本郷構内の遺跡 工学部1号館地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書6、2006年刊行)

晩期

土器廃棄場

 縄文時代晩期の土器片は本郷構内全域に散見されますが、遺構は医学部附属病院入院棟A地点の埋没谷で発見された土器廃棄場のみで、安行3c式を中心とする2箇所の集中区(合計344点)が確認されました。出土した層位は、文学部3号館地点、御殿下記念館地点の後期土器と同じと思われる黒色土上部です。
 この周辺で人々が生活していたことは確実と思いますが、後・晩期の南関東地方では竪穴建物が比較的浅く構築される傾向があるため、他の遺構が検出されていないのは、後世の掘削・削平で消失した可能性も考えられます。
(執筆:香取祐一)

調査地点:医学部附属病院入院棟A地点(本郷23)
掲載:『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院入院棟A地点 報告編』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書13、2016年刊行)

弥生時代 ※準備中

古墳時代 ※準備中

平安時代

井戸跡

 これまで本郷キャンパス内で発見された古代の遺構は、竪穴住居跡が数件、井戸跡が1基とわずかで、古墳時代以前と比べて土地利用が低くなったといえます。写真の井戸跡は医学部附属病院内を蛇行して根津谷へ開く埋積谷内から発見されました。井戸は南北6.3m、東西5.4mを測る楕円形の皿状の落ち込み内に、一辺約2m、深さ約2mの正方形の掘り込みがあり、さらに掘り込みの底には水溜と考えられる一辺約80cmの正方形の落ち込みがありました。この落ち込みの角には杭痕が認められ板枠があったと考えられます。また井戸底は関東ローム層を掘り抜き、本郷砂層を約50cm掘り下げた深さにあり、本郷砂層内の地下水脈を水源にしていたことが判ります。
(執筆:成瀬晃司)
調査地点:医学部附属病院中央診療棟地点(本郷4-1)
掲載:『医学部附属病院地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書4、1990年刊行)
※写真・文章の二次利用を禁止します。

近世

目次
大名屋敷
 加賀藩邸 御殿空間 詰人空間
 大聖寺藩邸
 富山藩邸
 水戸藩邸
武家地
町屋
寺院

大名屋敷 加賀藩邸

国産品の「茶道具」

 元禄16年(1703)の大火で被災して廃棄された陶器・土器です。次のような特殊な装飾・形の器が出土しました。
 碗は、古今集の和歌が記されたり(①)、象嵌で竹を表現する(②)など凝った装飾が施されます。信楽の陶器壺(③)は、上部に褐色の釉薬、下部に透明の釉薬が掛かり、宇治茶を将軍に献上した「腰白茶壺(御用茶壺)」に似ています。備前産の舟形陶器(④)は、伝世品の「釣舟花入」に形が類似しています。
 このような器の組合せは、江戸遺跡でよく出土する碗・皿・徳利等の組合せと異なります。伝世品との比較から「茶道具」の可能性が考えられます。
(執筆:湯沢丈)
調査地点:法学部4号館地点(本郷2-1)
出土遺構:E8-2号土抗
掲載:『法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
関連書籍:『加賀殿再訪』

大名屋敷 加賀藩邸 詰人空間

八筋長屋跡

 加賀藩において家臣の多くは参勤交代により江戸に滞在する一年ほどのあいだ、藩から貸し与えられた「御貸小屋」と呼ばれる長屋に単身で住むことになります。こうした家臣団が居住する区画は「詰人空間」と呼ばれ、本郷邸では中央にある「御殿空間」を囲うように整然と配置されています。
 家臣団は人持組頭(八家)を筆頭に人持・平士・与力などに区分されており、住環境はこうした階層によって大きく異なっていました。風呂や厩などは上・中級藩士が暮らす長屋に限られましたが、庭だけは小さいながらも下級藩士の長屋にもありました。
 発掘調査では庭部分からごみ穴や便槽跡などのほか、地下室が多く検出されています。ほとんどが素掘りで一辺1.5~2.0m程度の広さです。造り付けの階段を持たないため、梯子などで昇降していたのでしょう。地下室は帯状の範囲に密集する傾向がみられることから、庭内で構築される位置がある程度限られていたと考えられます。
(執筆:小川祐司)

調査地点:理学部7号館地点(本郷5)
掲載:『東京大学構内の遺跡 理学部7号館地点』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書1、1989年刊行)
参考文献:『法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書2、1990年刊行)
 大成可乃 2020 「地下室を思考する―医学部教育研究棟地点と他地点との比較から―」『東京大学本郷構内の遺跡 医学部教育研究棟地点 研究編』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書14)
 吉田伸之 1988 「近世の城下町―江戸から金沢へ―」『週刊朝日百科 日本の歴史別冊 歴史の読み方』2

大名屋敷 大聖寺藩邸

庭園跡

 写真は大聖寺藩邸内に造られた池跡です。確認面上下の層序や出土遺物から1680年代後半に構築され、元禄16(1703)年の火災で廃絶されたことが確認されました。池跡は2基発見され、いずれも全面に厚さ5~10cmの漆喰が貼られていました。写真手前の瓢箪形をした池が古く、それを埋め戻した後、奥の池が作り直されています。奥の池は四つ葉のクローバー形をしており、中央に中之島が造られています。左手前の溝状部分の先端には取水口があり、上水を引き込んでいたことが確認されました。大聖寺藩邸内の生活水は基本井戸によりますが、池の水源には中山道(現、本郷通り)に沿って引かれた千川上水を利用していたと考えられます。池の周囲には多数の植栽痕や土塁が発見され、池を中心とした庭園が拡がっていたと考えられます。
(執筆:成瀬晃司)

調査地点:医学部附属病院入院棟A地点(本郷23)
掲載:『医学部附属病院入院棟A地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書13、2016年刊行)

大名屋敷 水戸藩邸

藩邸内を区画する道路状遺構(SR1)

 言問通りの北側、弥生・浅野地区は、江戸時代、水戸藩江戸屋敷の1つである駒込邸でした。水戸藩駒込邸は、元和8(1622)年に下屋敷として拝領し、元禄6(1693)年に中屋敷になりました。拝領面積は、幕末頃には約64000坪でした。
 農学部生命科学総合研究棟地点で確認されたSR1は、調査区を北西から南東方向へ延び、確認面での幅10.9m、遺構底面の幅5.5m、確認面からの深さ4.54mを測る大きな道路状遺構です。いわゆる関東ローム層を掘り抜き、断面形状が逆台形を呈すように造られ、遺構の底面には轍(わだち)状の痕跡も確認されました。
 文政9(1826)年『向陵弥生町旧水戸邸絵図面』との照合から、SR1は藩邸を東西に区画する道と推定していますが、明治16(1883)年測量の「参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図」には描かれていない事から、それまでには埋められていたと考えられます。本遺構からは、19世紀代に位置づけられる遺物が少量出土していて、想定される廃絶年代を裏付けるものです。
(執筆:大成可乃)

調査地点:農学部生命科学総合研究棟(本郷62)
掲載:「農学部生命科学総合研究棟(NSK01)地点」『東京大学校内遺跡調査研究年報7』(2011年刊行)
参考文献:『東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区Ⅰ東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区Ⅰ』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書9、2009年刊行)
 『東京大学本郷構内の遺跡 教育学部総合研究棟地点(SK)・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点(IML)』(東京大学遺跡調査室発掘調査報告書10、2011年刊行)
 『弥生誌』東京大学総合研究博物館(2011年刊行)

武家地


地下室に刻まれた職人の記録(SU327)

 正門北側から弥生町交番付近までの本郷通り沿いには、幕府の御先手鉄砲組屋敷が置かれていました。その一角にあたる工学部14号館地点の調査では4区画の屋敷が確認され、地下室、土坑、井戸など多くの遺構、遺物が発見されました。写真の階段付地下室は、一辺320cm、天井高200cmの室部規模を呈す大形の地下室です。室内の壁には「丑ノ九月廿四日初/同九月廿八日出来申候/内許」「市郎兵衛/次郎兵衛/■久蔵/清兵衛」と刻まれていました。その内容から最低5人の職人によって地下室の内装に5日間を擁したことが判り、江戸時代の地下室建設工期を知る貴重な資料と評価されます。
(執筆:成瀬晃司)

調査地点:工学部14号館地点(本郷14)
掲載:『工学部14号館地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書7、2006年刊行)

町屋

本郷六丁目町屋跡から見つかった地下式麹室

 「赤門」のイメージが強く、本郷キャンパスは江戸時代の加賀藩邸と思われている方が多いと思いますが、実は文政9(1826)年までは町屋だった場所があります。それが本郷通り(旧・中山道)沿いにある現在の情報学環・福武ホール、伊藤国際学術研究センター、経済学研究科学術交流棟などが建っている辺りです。
 「なぜ文政9年まで?」といえば、加賀藩では徳川将軍家から溶姫を迎えるため、文政9年、藩邸西側にあった本郷五丁目・六丁目の町屋を引き払い、藩邸を西側へ拡げて御殿を建てました。その表御門が「赤門」です。そのため調査地点周辺は、文政9年までは町屋、それ以後は加賀藩邸になりました。3地点を発掘したところ、町屋時期の生活面と加賀藩邸時期の生活面が見つかりました。
 町屋の生活面で見つかる最も特徴的な遺構が写真の「地下式麹室」(伊藤国際学術研究センター地点(本郷93)SU906)です。地下式麹室は全ての調査地点で確認され、本郷六丁目町屋の居住者の生業を示す遺構です。遺構中央には方形の竪穴(たてあな)があり、その周囲に羽子板形をした部屋が複数連結しています。本来、地上で確認できるのは中央の竪穴のみです。竪穴は、地下3m近くまで関東ローム層を掘り下げ、さらに人1人が入れる程度の入口から羽子板形に部屋を掘り拡げました。室内の天井、壁は、丁寧に整形され、大人が中腰で活動できる程度の高さでした。天井や壁が当時の状態で発見されたものもあり、安政江戸地震や大正関東地震の揺れを耐え抜くほどの強度を持っていたことが窺えます。
(執筆:大成可乃)

調査地点:伊藤国際学術研究センター地点(本郷93)、情報学環・福武ホール地点(本郷78)、経済学研究科学術交流棟(本郷81)
掲載:「情報学環・福武ホール地点」『東京大学構内遺跡調査研究年報6』(東京大学埋蔵文化財調査室2008年刊行)
 「経済学研究科学術交流棟」『東京大学構内遺跡調査研究年報7』(東京大学埋蔵文化財調査室2011年刊行)
 「伊藤国際学術研究センター地点」『東京大学構内遺跡調査研究年報8』(東京大学埋蔵文化財調査室2012年刊行)
参考資料:『赤門-溶姫御殿から東京大学へ』(堀内秀樹・西秋良宏編、東京大学総合研究博物館2017刊行)

寺院

講安寺墓地

 医学部附属病院南東部は、大正元(1912)年に取得した浄土宗講安寺境内に該当し、入院棟A地点などで墓域の一部が発見されました。墓は東西方向に並ぶ墓群を構成し、常滑焼大甕の甕棺、方形木棺、円形木棺(早桶)、乳幼児用の火消壺棺、火葬蔵骨器などの埋葬施設が出土しました。
 講安寺墓地の北西部は元禄3(1690)年から弘化3(1846)年頃まで富山藩に貸地されていた記録から、発見された墓地は1850年代から1900年代までに埋葬された施設と考えられます。理学部人類学教室との出土人骨共同研究から、被葬者は江戸市中寺院データと比べて成人男性比の高さが指摘でき、講安寺史料にみられる加賀藩士や榊原家家臣などの埋葬がそれを押し上げていると考えられます。
(執筆:成瀬晃司)

調査地点:医学部附属病院入院棟A地点(本郷23)
掲載:『医学部附属病院入院棟A地点』(東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書13、2016年刊行)

近代 ※準備中

駒場地区

東京大学駒場構内遺跡(東京都目黒区)

 駒場Ⅰ地区は東京大学駒場構内遺跡(目黒区№1)の名称で、旧石器時代・縄文時代・平安時代・近世の遺跡として登録され、駒場Ⅲ地区は駒場遺跡(目黒区№2)の名称で、縄文時代の遺跡として登録されています。

旧石器時代 ※準備中

縄文時代 ※準備中

近代

三田用水を引き込んだ木樋跡(SD85)

 本地点では、農科大学から農学部時代の畝跡や三田用水から取水溝などが発見されています。取水溝には木樋が使われ、江戸時代の土木技術が用いられていることが判りました。三田用水は寛文4(1664)年に上水として開削され、享保7(1722)年に一旦廃止された後、享保10年から農業用水として再開され、明治に入ると目黒地域では日本麦酒、目黒火薬製造所などの動力として工業利用されていました。
 本キャンパスは農学部の本郷移転に伴い昭和10(1935)年に旧制第一高等学校になり、同24(1949)年に新制大学へ移行に伴い教養学部となりました。概期の本地点は駒場寮敷地にあり、それに伴うゴミ穴の調査から当時の学生生活の一端を垣間見る遺物が発見されています。
(執筆:成瀬晃司)
調査地点:駒場コミュニケーションプラザ地点(駒Ⅰ15)
掲載:「駒場コミュニケーションプラザ地点」(東京大学構内遺跡調査研究年報12、2019年刊行)
※写真・文章の二次利用を禁止します。

小石川地区

国指定名勝及び史跡小石川植物園、小石川植物園内貝塚・原町遺跡、小石川御薬園跡(東京都文京区)

 小石川地区は、小石川植物園内貝塚・原町遺跡(文京区No.21)、小石川御薬園跡(文京区No.81)の名称で、旧石器時代・縄文時代・近世の遺跡として登録されています。
 また植物園は、江戸幕府の御薬園を前身とし、明治8年には小石川植物園に改称し、我が国最初の植物園となり、平成24年に国指定名勝及び史跡小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)として指定されました。

縄文時代

大洞系土器

 白山構内に位置する理学系研究科附属植物園本園下水・電源ケーブル埋設枡・埋設溝地点では、縄文時代晩期の竪穴建物1基および遺物包含層が確認されました。
 縄文時代晩期の竪穴建物の検出例は、南関東地方では少なく希少といえます。これは小石川植物園が明治期始めより植物園として存続し、乱雑な開発の影響が少なかった故かも知れません。
 竪穴建物および遺物包含層は南西側に降る急崖上で発見され、特に遺物包含層はわずか3.2㎡の区画から1000点以上の土器が出土しました。
 出土した土器は、縄文時代晩期後葉の安行3d式が中心ですが、東北地方を中心に出土する亀ヶ岡式土器(大洞系)の影響を受けた在地系土器片も含まれていました。
(執筆:香取祐一)

調査地点:理学系研究科附属植物園本園下水・電源ケーブル埋設枡・埋設溝地点(白山6)
掲載:「東京大学白山構内の遺跡 理学系研究科附属植物園本園下水・電源ケーブル埋設枡・埋設溝地点発掘調査報告」(『東京大学構内遺跡調査研究年報11』11、2019年刊行)

近世

饗宴後の廃棄遺構(館林藩下屋敷)


堀跡(小石川御殿)

 17世紀後半の小石川植物園は館林藩下屋敷内に位置します。館林藩は後の5代将軍綱吉が藩主を務めた譜代藩で、寛文~延宝年間頃には生母桂昌院が居住していました。そのため綱吉が頻繁に下屋敷を訪れていたことが文献記録から読み取れます。研究温室地点で発見されたカワラケ(土師皿)と食物残滓の多量廃棄遺構は、綱吉訪問など桂昌院が関係する饗宴で使用された資料と考えられます。
 また下屋敷の一角は綱吉の将軍奉職に伴い幕府の小石川御殿となり、元禄11(1698)年の御殿拡張により御殿周囲には幅約10間の堀が巡らされました。総合研究博物館小石川分館改修に伴う調査ではその一部が発見されています。
(執筆:成瀬晃司)

〇館林藩下屋敷 SK45
調査地点:研究地点(白山2)
掲載:「理学系研究科附属植物園研究温室地点発掘調査報告」(東京大学構内遺跡調査研究年報5、2006年刊行)
〇小石川御殿 堀 SD1
調査地点:総合研究博物館小石川分館地点(白山3)
掲載:「総合研究博物館小石川分館地点発掘調査報告」(東京大学構内遺跡調査研究年報6、2008年刊行)

目白台地区

目白台三丁目遺跡(東京都文京区)

 目白台地区は、目白台三丁目遺跡(文京区№137)として登録され、旧石器時代・弥生時代・平安時代・江戸時代・近代の遺跡が確認されています。

弥生時代 ※準備中

古代

大型柱穴をともなう古代の大形建物跡(SP1844、SP1854、SP2135、SP2136、SP2137)

 写真は、2015年度に東京大学附属病院分院跡地(他23)の調査で見つかった東西530cm以上、南北400cmを測る古代の大形建物跡(白線)です。この建物跡の特筆すべきところは柱穴の大きさです。写真中央から左半分は、近代以降に大きく壊され柱穴が小さくなっていますが、残りのよい右側の柱穴は、長軸約70cm、短軸約60cm、深さ約90cmを測り、人の胸あたりまで入るような、深くて大きな柱穴です。その一部には柱の痕跡が認められ、柱穴に建てられた柱の直径が約30cmであることもわかりました。柱穴からは土師器や須恵器の破片が出土しており、古代の大形建物跡(倉庫?)と推定しています。
 この大形建物跡の周辺には、同時期と推測される同規模の竪穴建物跡、柱穴列、土師器や須恵器がまとまって廃棄されたごみ穴?なども見つかっています。本地点の調査以前は周辺に古代の竪穴建物跡などが見つかった例がなく、この調査成果は付近にも古代の集落があった可能性を示すものとなりました。 
(執筆:大成可乃)

調査地点:目白台国際宿舎地点(他23)
掲載:「他23 目白台国際宿舎(メジロ15)」『東京大学構内遺跡調査研究年報』11 
 

近代

レンガ基礎(1号病室基礎)

 写真は、2022年度に東京大学附属病院分院跡地(他27)の調査で見つかったレンガ基礎です。レンガ基礎は不規則なマス目状に確認され、建物の間取りが推測できる状態でした。東京大学施設部に残る大正8年「東京帝国大学附属醫院分院平面図」と照合したところ、「1号病室」の基礎である事が判りました。ただし、よくよく検討すると大正8年の平面図とは部分的に間取りが異なり、そのような部分の調査を進めると、増改築した痕跡が見つかりました。大正8年以降の分院平面図または配置図をみていくと、建物名称が何回か変更されながら、建物そのものは昭和17年の配置図まで同じ位置に確認できます。ただ各配置図を見比べると建物の輪郭が変わる部分が確認される事から、増改築を加えながら昭和17までこの建物があった事が推測されます。
 もともと分院跡地には明治41(1908)年に内務省医術開業試験所(通称・永楽病院)があり、永楽病院はその後、大正6(1917)年に東京帝国大学に移管され、大正8(1919)年に東京帝国大学医学部附属医院分院となります。移管された当初は、建物、物品は一部を除き東京帝国大学に無償交付されたので、分院創立当時の建物は永楽病院末期の建物を利用していたようです。今回見つかった「1号病室」も永楽病院から移管された建物リストに入っていて、「木造平屋建」と書かれています。ただ基礎構造についての記述はなく、明治末頃の木造建物の基礎構造を知る上で貴重な資料です。
(執筆:大成可乃)

調査地点:(仮称)文京区目白台3丁目計画地点(他27)
掲載予定:『東京大学構内遺跡調査研究年報』18
参考文献:東京大学医学部附属病院分院閉院記念事業実行委員会2001『東京大学医学附属病院分院の歩み』
 

白金台キャンパス

港区No.135遺跡(東京都港区) ※準備中

 白金台キャンパスは、港区№135遺跡の名称で、近世の遺跡として登録されています。近世には大村藩の屋敷が存在しました。

旧石器時代

近世

三鷹国際学生宿舎

長嶋遺跡(東京都三鷹市) ※準備中

 三鷹国際学生宿舎敷地は、長嶋遺跡(三鷹市№24)の名称で登録され、旧石器時代・縄文時代等の遺跡が確認されています。

旧石器時代

縄文時代

弥生時代

検見川キャンパス

玄蕃所遺跡(千葉県千葉市) ※準備中

 検見川キャンパスの一部は、玄蕃所遺跡の名称で登録され、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、平安時代の遺跡が確認されています。

旧石器時代

理学系研究科附属臨海実験所

新井城跡(神奈川県三浦市) ※準備中

 理学系研究科附属臨海実験所の敷地および周辺は、中世新井城跡として登録されています。

旧石器時代

縄文時代

弥生時代