本郷キャンパス・浅野地区に遺跡解説板を設置

2006330日、浅野地区工学部9号館東に位置する「弥生二丁目遺跡」(文学部考古学研究室・理学部人類学教室1975年調査、1976年6月7日国指定史跡に指定)、工学部武田先端知ビル(東京大学埋蔵文化財調査室2001年調査)に、弥生時代の遺跡解説板を施設部により設置されました。
 武田先端知ビルでは、浅野正門奥の道路に、
黒いタイルで方形周溝墓の検出位置を実物大で示しました。遺跡解説板は自由に見学ができます。また、文京区教育委員会は「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑近くに、東京大学遺跡案内を設置しました


武田先端知ビル地点から検出された方形周溝墓の位置と解説板

弥生二丁目遺跡の解説板

東京大学・浅野地区の歴史


 浅野地区の名称は、明治20年(1887)、本郷区向ヶ岡弥生町(旧町名)に移転した浅野侯爵邸敷地の大部分が、戦中から戦後にかけて大学敷地となったことに由来します。弥生町は「弥生時代」の由来となった土器(東京大学総合研究博物館蔵が、明治16年(1884)に発見された町として、全国に知られています。浅野地区では「弥生二丁目遺跡」、工学部武田先端知ビルなどで、弥生時代の遺跡が調査され、環濠集落、方形周溝墓から弥生式土器が出土しました。

 浅野地区、弥生地区、本郷地区の一部は、江戸時代の水戸藩中屋敷でした。工学部10号館西には、文政11年(18283月(弥生)10日に藩邸内に建てられた「向ヶ岡碑」が設置されています。碑文は水戸藩主徳川斉昭の自撰自書で「向ヶ岡弥生町」の由来となったとされます。

 浅野地区、浅野地区西側と言問通り北側の住宅地は、明治時代の警視局(現警視庁)射的場でした。このうち、西側の住宅地は射場にあたります。射的場は、上野公園射的場の代替地として計画されました。明治9年(1876)に射的場建設を開始し、明治10年(1877110日、会場式が行われ射的演習が開始されました。明治102月〜9月の西南戦争では、警視庁から9,500名が派遣されており、上野公園射的場、弥生町射的場で射的演習を行った巡査等が、西南戦争に派遣されたと考えられます。射的場は、明治15年(1883)宮内省所轄の射的場となり、同年、皇宮地附属地の東京共同射的会社射的場となりました。明治15年以降、明治天皇の行幸が度々行われ、陸軍、警視庁等の射的会が行われました。理学部3号館北に建てられていた「弥生舎」では、射的会の表彰、酒宴などが行われました。明治20年以降「弥生舎」は増改築され浅野侯爵邸となります。武田先端知ビルでは、小銃の弾丸が射場出入口と関連施設から出土しました。この他に「弥生舎」銘の牛乳瓶、浅野家家紋の瓦が出土しました。工学部9号館南には、警視庁の招魂社である「弥生神社」(現「弥生慰霊堂」)が、明治18年(1885)に建てられました。弥生神社には警視庁の殉職者、初代警視総監川路利良、警察顧問などを務めた、フランス人ぺー・グロースが祀られました。弥生神社の移転(明治20年(1887))と射的場の移転(明治21年(1888))以降、弥生町の宅地化が本格的に開始されました。明治2728年(189495)には弥生坂が開設され、言問通りが延長されます。(原 祐一)

【参考文献】
原祐一2006「本郷区向ヶ岡弥生町の開発と向ヶ岡貝塚」日本考古学協会72回(2006年度)発表要旨(2006528日東京学芸大学にて発表予定)

原祐一2006向ヶ岡貝塚はどこか 近代史料による推定」日本考古学協会72回(2006年度)発表要旨追加資料(2006528日東京学芸大学にて発表予定)

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